taketsanの観心日記

海外でお仕事中。

観心なう

どうも僕は、学会の手垢にまみれたもの触れることにに精神的な苦痛を感じてしまうらしい。

最近は祈り始めている。祈るという行為そのものは、僕にとっては学会の手垢にまみれていない、宗教的な行為だと感じれるようになったということかな。以前はそれさえも苦痛だと感じていた。いや、そう予想していたから意図的に避けてきていた。

しかし、自分の中に「祈りたい」という気持ちが未だ強く残っていること、驚くばかりだ。しかも祈りは思考を整理し、一日に活力を与えてくれる。

祈りは義務ではない。精神の波の中に、祈るべきタイミングがあるというだけの話だ。それがわかるようになってきた。例えば、活動が緩慢になってきたとき。次の見通しがあるはずなのに、それが自分を突き動かしていないとき。我に還るためというか、祈る必要があるなと思わされるのだ。

今までは、祈るという行為自体が学会人としての義務であり、それをきちんと果たしていることで組織からの暗黙の圧力を受けない状態になり、楽になっていた。

しかし、それでは何のための宗教か。組織のために自分がいるのか。自問する日々だった。今は、祈りたいから祈る。それ以上の行為を自分に求めていない。大きな成長だと感じる。

しかし、御書を読むのは苦痛だった。真蹟かどうかもわからない文章、それもただの手紙を自分にあてたものとして読むのは少し無理がある。その無理を学会は通してきた。「さあ、御文だぞ。金言だぞ。正義の叫びだぞ。ありがたく受け止め、しっかり組織について活動しなさい」と、その言葉を利用して組織を拡大してきた。

大聖人については、未だよくわからない。世界的には、日本という特殊な場所で生まれた仏教の一派としてしか捉えられていない。決して主流ではない法門。その信仰こそが絶対だと広宣流布を進める学会。

しかし、僕はそもそもの法華経や釈尊の思想にこそ惹かれるし、クリシュナムルティも読んでいきたいと思ってる。大聖人は、仏教の系譜の一つとして、またD作先生も系譜の一つとして捉えたいし、多くの先人がそれぞれに悟り、それぞれに語っている仏法を、自分もまた悟って語りたいと思ってる。

だから、学会は嫌い。でも、祈りをささげることは今の自分には必要だなって思ってる。

 

心をじっと見てる。その揺らぎを観察してる。

脱学会というか、脱組織のプロセスの途上の今、非常に苦痛は多いんだけれども、自分の人生をきちんと構築して、自由に生きたいと思う。

海外にいる今、本を手に入れることにかなり苦労するのがつらいが、少しずつ進んでいけたらと願う。

 

ところで今は、『太平洋戦争』を読んでいる。争いの醜さもさることながら、当時の国民の様子がよく分かる。戦争は良くない。けれども、当時の天皇も、政府も、軍部も評価できるほど和平の道を探っていたのではないかと思う。大政翼賛の世の中で、国民感情は戦争に向かっていた。

死者を出してしまった争いは、後には引けない。それでは犠牲者の気持ちがむくわれない。売られた喧嘩を買い、進退つかぬ状態。そしてルーズベルト、ハルの陰謀。石油の禁輸などの圧迫を受け、反米感情は増す一方。白人の人種差別を全身に感じ、爆発はいつ起こってもおかしくない。下手に和平し、占領されるようなことがあれば、国内でテロ行為が起こるだろう。

政治家の無能さや、国家間の誤解・疑い、民族感情など、複雑な要素が絡まって、暴力は否応なく発生した。

今だってそうだ。暴力は否応なく生まれ、誰も止められない。

そして、戦争の悲惨さを知っているのに、日本軍の勝利を文字で読めば、喜んでいる自分がいる。死がそこにあるというのに、とても小さく見える。なんて醜い自分の心だろう。生命に刻まれた暴力性を消し去ることはできない。いくら平和を求めても、人類から暴力が消えることはない。僕は如何に生きるべきか?悩む。観心、なう。