taketsanの観心日記

海外でお仕事中。

開設

日記として解説した。

本日、帰国。iphoneのSIMをうまく認識しないため、仕方なく2回目のSIMロック解除へ向かう。

また3000円もとられるのかと肩を落としながら、仕事で使うものだから仕方ないと直してもらう。

auの4Sを日本で契約し、1年利用。契約を休止して、海外にわたる。で、一度SIMロックを解除してもらってから利用。今週に一時帰国した。auの方では再び利用可能な状態にすることができず、復元後の利用をもとめられた。短期滞在ということもあり、それも面倒だったので、結果契約を解除したのだが、そのとき少しいじられた影響で、海外での利用が再開できなかったという面倒な流れだった。

ま、使えるようになったのだから文句はやめとこう。今日はお土産を渡しながら土曜を満喫した。『アルジャーノンに花束を』を読んだ。記憶がなくなるチャーリーに自分を重ねたとき、この一瞬もいつか忘れていくのだろいうというのが怖くなってブログを始めたというわけだ。以前から書きたいことはたくさんあったし。

書評というか、感想を書いておこうかな。

彼は、日に日に知能が衰えていくのを、死と同義だと考えただろう。最後まで読書をあきらめなかった。知能をつなぎとめておきたかった。自殺さえ考えた。自分が自分でなくなる感覚。とても怖かっただろう。

巻末の「さよなら」との一言は、あまりにも重たく、文字に表しきれるものではない。そして悲しみを増すのは、自分の症状、手術、その後の経過に至るまで、自分で論文を出すほど彼は自分の人生を熟知してしまったことだ。

知能を手に入れた彼は、自分の人生に何が起こるかを細部に至るまで知ってしまった。神の領域に手を出したのだ。「死」に至るプロセスを彼はどんな思いで過ごしていたのか。人類の誰もが絶対に経験することのない、一人だけの悲しみ。その孤独を読者はどう理解したらいいのかわからない。

けれども、彼は生きた。「借り物の人生を、チャーリーに返す」ということに責任を感じて。そして静かに死んでいった。

果たして、天才と白痴の彼は、同一人物か。いや、まったくの別人ではないのか。愛し合ったアリスさえ、最後には彼を避けてしまったのだ。

そして私たちにしてもそうだ。チャーリーのように劇的な変化はなくとも、私たちはいつか病に伏し、愛した人さえ忘れ、気が付けば死んでいるのだ。いつか、別人になってしまう。

それを突き詰めれば、今日の私と明日の私はまったくの同一人物かといえば、そうではないような気さえする。小さな変化が私を包み込み続けている。

「私」の同一性を鋭く問いかけた名作。私はそう読んだような気がする。(最後は適当)